日本百観音を一堂にお詣りできる百番観音堂。
堂内には江戸時代中期(1785年)に造立された観音石仏が百体祀られている。
■創 建 1710(寶永7)年
■ご利益 安産祈願(白子観音)、諸願成就、災障消除
※現在の百番観音堂は2012年に新建立されたものです
西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音の百観音。
観音石仏は造立当初より堂内に祀られており、百体が風化せず完全な形で現存している例は全国的にみても珍しい。
西国一番石仏には、1785(天明5)年に信陽(長野県)高遠の高島清七氏、石工の北原藤右エ門氏、藤木團蔵氏によって造立さてたことが刻まれています。
御本尊・聖観世音菩薩は1841(天保12)年造立。
■お唱え 南無大慈大悲観世音菩薩
■ご真言 おん あろりきゃ そわか
■御詠歌
鳩川の にほいもつきぬ 梅宗寺 むすぶちかいは 詣る百番
納経、御朱印をご希望の方は、梅宗寺本堂玄関までお越しください。
白子観音は三十三観音の一つである「白衣子安観音」で白衣観自在母とも称され、母親のような慈悲深さを持ち、日本各地で安産子安の守り本尊として信仰されています。
梅宗寺では江戸時代から「堂内でロウソクを灯し、白子観音にお詣りして、そのロウソクを頂いて帰り、お産の最中に灯しておけば、安産する」という伝えがあり、現在でも多くの方々がお詣りしています。
ある時、梅宗寺の門前の飴売り婆さんの所に、どこからか一人の女六部(巡礼者)が弱り果てたどり着きました。その女は妊娠をしていて、この門前で産気づき苦しみ始めました。婆さんの介抱もあり、子どもは無事に産まれましたが、女は産後まもなく亡くなってしまいました。そこで無縁墓に葬り、赤子は一時、婆さんが面倒をみていましたが、梅宗寺の住職があわれに思い、引き取って世話をすることになりました。
さて、その後、日暮れになると、必ず婆さんの店先で、一文銭を差し出し、黙って飴玉を買って帰る女がありました。それが毎晩続いて六晩に及びましたが、それ以後ぴったり来なくなりました。
婆さんが不思議に思い、住職に話しました。すると住職は「それは、この間、門前で亡くなった、あの六部の幽霊に違いない。例の赤子が与えもしない飴玉を時々しゃぶっているので不審に思っていたが、それは、死んでも子どものことを思って死にきれず、お前の所から飴玉を買って来て、与えておったのであろう。六晩続いて七日目に来なくなったのは、葬る際に持たせてやった、例の三途の川の渡し賃の六文銭が終わってしまったので、買いに行くことができなくなったのだ。はて、あわれ千万のことだ。南無阿弥陀仏」と数珠をまさぐるのでした。
婆さんは子どものために迷う六部の亡霊を不憫に思い、近所の人々と鳩川に「流れ灌頂」を作って冥福を祈りました。そして、六部の亡くなった場所には、観音堂を建立して、永く回向したものと言われ、現在まで安産守の観音様として伝えられています。
日本百観音(西国三十三番札所、坂東三十三番札所、秩父三十四番札所)
※百番観音堂内では百観音すべての御朱印がお詣りできます。
日本で三十三観音の霊場をお参りする風習は、平安時代から始まります。
観音菩薩は、お釈迦様や阿弥陀如来様に代わって、私たちの苦悩を救う菩薩様として、日本においては仏教が伝来した頃より信仰されています。『観音経』では、観音菩薩は苦悩を救済するために、私たちと同じ姿をして現れるとされ、三十三身に変化する姿が伝えられています。
三十三身に変化する姿は、やがて三十三観音信仰へ発展し、また、由緒ある観音菩薩が祀られている寺院を三十三か所選び、三十三観音霊場としてお参りする風習が始まりました。
三十三観音の霊場(札所)をお参りすると、生前の罪業が消滅し、極楽浄土へ往生することができるという信仰が広まり、平安時代末期には死後の安寧や死者の供養のために、観音霊場巡礼が始まりました。
そして、京都を中心に近畿2府4県と岐阜県に西国三十三番札所が定められました。鎌倉時代に入ると初代将軍源頼朝が坂東三十三番札所の選定を発願し、三代将軍源実朝によって関東1都6県の札所が制定されました。室町時代末期には秩父(埼玉県)に観音札所が制定され、江戸時代に入り、秩父を三十四番とし、西国三十三番、坂東三十三番と合わせて、日本百観音として信仰を集めることとなりました。
〒252-0136
神奈川県相模原市緑区上九沢264
TEL 042-762-2947
FAX 042-762-2947