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百番観音(相模原市文化財)・安産守白子観音を祀る観音霊場

TEL. 042-762-2947

〒252-0136 神奈川県相模原市
緑区上九沢264

南山古梁禅師顕彰碑ABOUT TEMPLE

南山古梁禅師顕彰碑

南山古梁禅師顕彰碑

遺墨
「天下有山水 各擅一方美
 衆美帰松州 天下無山水」

天下山水あり おのおの一方の美を擅にす
衆美松州に帰し 天下山水なし

顕彰碑について

この顕彰碑は、昭和37年、南山禅師の遺徳をしのぶ郷士の南山禅師顕彰会が建てたもので、根布川石に禅師のブロンズ像をはめ込み、その下に碑文、左側には遺墨の松島をめでる五言絶句が刻み込まれている。

また百坪の敷地内には仙台石の筍灯篭や、仙台市寄贈の宮城野の紅白の萩が植えられている。

南山禅師は、上九沢名主笹野政右衛門の次男で1756(宝暦6)年の生まれである。9歳の時、菩提寺の大島長徳寺で出家し、田名南光寺に移り、11歳の時、江戸高輪の東禅寺で修行した。13歳の時、仙台藩主伊達重村が父宗村の13回忌法要のため東禅寺に詣でた。南山は茶を給仕したが、誤って茶碗を覆し、重村公の袴の裾に茶をかけてしまった。重村公は怒って刀に手をかけたが、落ち着いて過ちを謝す南山の態度に感じ入り、これを許して学禄二人扶持を給し将来を約束した。南山はますます修行に勤め、仏典や漢籍を勉学した。

1793(寛政5)年、重村の召しに応じ、伊達家三代の廟所である、仙台瑞鳳寺第14代の住職となった。1809(文化6)年には、本山京都妙心寺の一夜住職となって勅旨による紫衣を賜り、引き続き瑞鳳寺・覚範寺両寺に住し伊達家の政治顧問格として勤めた。84歳、瑞鳳寺雄心院で遷化した。

碑文(表面)

古梁紹珉禅師は南山と号す。相州高座郡上九沢村名主笹野政右衛門の次子、宝暦六年の出生である。資性俊敏九才大島村長徳寺に出家し、次いで江戸高輪東禅寺で修業した。十三才伊達重村に認められて学禄を給せられ、仙台との機縁を生ず。爾来励精万巻の書を読み、後四海を周遊して臨済禅を究む。寛政五年迎えられて仙台瑞鳳寺第十四世となり、文化六年京都妙心寺に入山し紫衣を賜る。帰仙後引続き瑞鳳覚範両寺に住し、学徳仙藩を風靡して衆庶の敬仰を受け、また伊達家の顧問格として推重せられた。天保元年退山して瑞鳳寺内に自適し、同十年十一月八日遷化す。時に齢八十四。師はその高邁超脱せる宗風と相まって特に詩文に長じ、一代の作品、詩二千、文四百と称せられ、書もまた雄頸、その断零墨今なお世に珍重せられる。実に近世屈指の名僧である。その父の死を悼める律詩中「悲鳴断雁書千里 艱難孤身腸九回」の一聯がある。幼少父母の膝下を離れ、帰郷すること稀なりしも、常に懐いを遠く郷土の空に馳せ肉親を思う情切なるものを知る。ここ誕生の地に顕彰の碑を建つ。願わくは偉霊欣然として照鑑せられよ。

碑文(裏面)

碑面の書は「天下山水あり、おのおの一方の美をほしいままにす。衆美松島に帰し、天下山水無し」と読む。禅師一代の傑作と称せらるる詩である。この幅は仙台瑞鳳寺所蔵で、禅師晩年の書である。肖像は笹野一族の笹野恵三氏の作で、原画は禅師に近親した菅井梅関筆の画像によった。遷化直後に敬慕の至情を注いでの作ゆえ、師の風貌に最も近いものと信ぜられる。撰文は相模原市史編集委員座間美都治氏によるもので、建長寺師家湊素堂老師の揮毫にかかる。
南山古梁禅師顕彰会は、昭和三十六年十一月地元大沢地区が結成し、次いで翌年四月相模原全市域を網羅しての会が組織せられ、市内外の同志に呼びかけ四百余名に及ぶ会員の芳志によって頌徳建碑の挙は成ったのである。
なお、これとともに禅師生涯の偉績を称えた記念誌を刊行した。

昭和三十七年七月八日
南山古梁禅師顕彰会


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